西郷隆盛は征韓論者ではないという説

以前書いた文書を投稿します。これまでとは全く毛色の違う内容ですが…。

西郷隆盛が「征韓論者」であったという通説がありますが、私はこれには反対の考えを持っています。自分個人の考えというよりは、10年ほど前に読んだ本から大きな影響を受けてのことですが…。

「明治六年政変」(毛利敏彦著)中公新書561

この本は信頼のおける史料を丹念に追うことによって、通説(西郷らは征韓論に破れ下野した)の誤りを明らかにするとともに、明治六年政変の真相を明快に解き明かしており、読みながら幾度となくわくわくしました。

さて、西郷が征韓論者であるという説ですが、これは例えば、板垣退助宛の書簡に「それよりは公然と使節を差し向けられ候わば、暴殺は致すべき儀と相察せられ候に付、何卒私を御遣わし下され候処、伏して願い奉り候。副島君の如き立派の使節はでき申さず候えども、死する位の事は相調い申すべきかと・・」とあることから、”朝鮮側に使節を派遣すれば、朝鮮側が使節を暴殺して開戦の名義が生まれるはずだ”という議論を行っていることが最大の論拠でした。

しかしながら、これに対して、著者は次のような意見を述べています。「西郷は、1873年10月15日付で太政大臣三条実美にあてた「始末書」において、〈公然と使節差し立てらるる〉のが至当であり、あらかじめ戦争準備をして使節を派遣するのは〈礼を失せられ候〉、そうでなくて誠心誠意の交渉によって〈是非交誼を厚く成され候御趣意貫徹いたし候様これありたく〉と明言している。この西郷の提案は閣議で満場一致で承認され、彼は志望どおり朝鮮派遣使節に任命されることが決まった。もし、西郷がそのまま朝鮮国に赴いたならば、日朝間の国交は円満にまとまり、その後のアジアの平和に大きく寄与したであろうことは疑いない」

このように板垣書簡の内容には矛盾があるわけですが、著者によれば、これは西郷の真意ではなく、閣議で強硬な征韓論的傾向を帯びた発言を繰り返していた板垣の支援を得るために、西郷が使ったテクニックであったという意見です。「西郷は公式には一貫して『朝鮮に非武装使節として赴き胸襟を開いて交渉に当たる』と表明しており、朝鮮出兵を主張したことは一度もない。板垣は当時、閣内において強硬に武力解決を主張しており、問題の手紙の内容はよく読めば、『まず私を朝鮮に行かせて欲しい。万一決裂すれば、後はあなたの自由にしなさい』という意味である。西郷は板垣と特に親しかった訳ではなく、彼一人に秘めた真意を明かす関係にはない。西郷は硬直した朝鮮問題を解決するために積極的に任に当たろうとしたが、留守政府に反感を持っていた岩倉、大久保、木戸、伊藤が使節派遣を口実に陰険な留守政府打倒を策謀し、失望した西郷は辞職した」

なお、この当たりの詳細な内容は、上記の本を読んでいただくのがよいかと思います。史実を元に実際に起きたであろう内容が再現されています。伊藤博文の暗躍ぶりが目を引きます。この明治六年政変によって、一番得をしたのは、長州の汚職閥であった(汚職を厳しく追及していた江藤新平も同時に下野したので)ということになります。

ところで、NHKの番組「その時歴史は動いた」(第15回「西郷隆盛、明治に挑む〜西南戦争勃発の時」平成12年7月12日(水)放送)でも、この毛利教授の学説にしたがった内容となっており、西郷は征韓論者でなかったという内容になっています。番組のサイトより解説した部分を拾ってみます。

所謂「征韓論」について
従来、西郷隆盛の下野(明治6年の政変)については、「西郷は不平士族の不満をそらすため朝鮮半島への出兵を主張したが内治派の大久保利通らによって妨げられ下野した」とされてきましたが、現広島市立大学教授毛利敏彦氏が「明治6年政変の研究」を始めとした一連の学説・研究でこの見方に根底的な疑問を呈してきました。(明治6年の政変は、岩倉具視木戸孝允ら外遊派の閣僚が土佐・肥後派を追い落とすために仕組んだクーデターであり、征韓論という外交問題を巡って政府が分裂した事件ではない。又西郷は公式の場で一度も朝鮮出兵を主張しておらず、むしろ征韓論を主張した板垣退助らに反対し、平和的な使節を送る事を主張した。)従来の説と毛利氏の説の間に正誤の決着がついたわけではありませんが、毛利氏の説は学会で一定の支持を得ているとの認識から、今回の番組では毛利氏の学説をふまえた内容としました。(つまり西郷イコール征韓論者とはしませんでした。)詳しくは、中公文庫「明治6年の政変」「台湾出兵」(共に毛利敏彦氏著)を・・・。